ANAの効果

父の晩年、病院のスタッフが勝手な背任行為を始めた。 かつては門前市をなした病院が、父が弱ってくるにしたがって業績不良に転落し始めた。
家業を継ぐことだけはしないつもりでいた私だったが、両親の心痛をみるに忍び、横浜での仕事を打ち切って名古屋へもどり、父の病院の再建に着手した。 折しも、父の手遅れになった胃癌を発見する役回りにもなってしまった。
この時期、「弟が生きていてくれたら」と何度私は悔やんだことか。 父が八三歳で死んだあと、母はなお一三年生きた。
一人になってからの母は、大町通いを父の生前と同じようにつづけた。 私の山仲間や妻が同行することもあった。
小屋へ行けば仕事はいくらでもある。 樹木を間引きしたり、薪を積み上げたり、斜面に階段をつけたり、落葉を焚いたりである。

母も妻も山仕事が好きだった。 やがて、私の子供たちが成長するにつれて、小屋の利用は冬期にも及び始めた。
子供たちは、幼少の頃から「大町の小屋」に泊まってスキーをやった。 木崎湖が凍った年は、湖面に出て、ワカサギも釣った。
老いた母も、新雪を踏みしめて、子供たちに手を引かれながら小屋まで登った。 母は去年(一九九五年)の三月に、老衰で肺炎を併発して死んだ。
父の命日も三月である。 弟が遭難したのは四月初旬。
三人の命日は奇しくも近い時期にかたよった。 母は弱ってから、よく、「お父さんが来た」とか「武が近くにいる」とかいい出した。
友人の夢に父が現れて「ハマ (母)はどこにいますか」と尋ねたという。 母の死後、私は、二人の姉との間で、胸のわるくなるような相続処理に半年を費やした。
母の1周忌がめぐってくる頃、やっと心に余裕が芽生え、一年振りに一家で大町の小屋へ行った。 早春の山は例年にない大雪に埋まっていた。
木崎湖が十年ぶりに凍った。 私たちが小屋に滞在した四日のうち二日は雪が降った。

樹氷の森に静寂が満ちている。 遠く幽かに鳥の声が聞こえる。
三五年間、木が伸びたこと以外に変わったことはない。 私は三人の子供に、彼らの「おじさん」と「おじいさん」と「おばあさん」のことを話して聞かせた。
一八歳の娘には「おじいさん」の記憶があった。 一四歳の息子は「おじいさん」を憶えていなかったが、「おばあさん」の世話をするために、彼の母親が苦労したことは理解していて、晩年に狂った「おばあさん」の奇行を、面白おかしく手真似を入れて再現した。
六歳の娘は、ぼけてからの「おばあさん」を思い出して、「私は年をとりたくない。 おばあさんみたいになりたくない」といって寝床で泣いた。
湖もみえない場所にあるから、森の樹氷を静かに味わうこともできるのです」 姉はスキーを、弟はスノーボードをやる。 斜面を二人が揃って滑降してくると、みんなが振り返るほどに速い。
この小屋ができた頃には、そもそもスキー場などいうものすら近くにはなかったのに、いまでは、昔、黒沢峠といったあたりから北へ、スキー場が連なって、仁科三湖をみおろしている。 スキーの好きな孫たちは、祖父母が山小屋を建てたことに感謝している。
その子たちをスキー場へ送り出したあと、私は壁の小さな本棚から、三木清の『人生論ノート』を于に取って、ソファーにくつろいだ。 自分の好きな最初の章を読むために。
昨年(一九九五年)、私の母が八九歳で死んだとき、本人の希望に従って誰にも知らせず、葬儀もやらずに焼いた。 母の心臓が止まったのは、ちょうど朝の七時であった。
不思議なことがふたつ起こった。 ひとつは、東京にいる古い山仲間の大森信から十時に電話があったことだ。

いきなり、「お母さん元気か」と聞いてきた。 「三時間前に死んだよ」と答えると、「やっぱりそうか」と、うなずくようにいう。
大森は、昨夜気になる夢をみたので私に電話を入れたといった。 話はこうだ。
夢のなかに正座した女性の後ろ姿が現れた。 やがて、その女性は、振り向いて大森をみた。
「その顔は、学生時代に君の家へ泊まった頃の、若いお母さんだったのだ」。 臨終を迎えてからの三時間後に夢に現れたのだろう。
もうひとつは、名古屋に住む友人の岡本信義が、母の死んだ日の午後に、突然、前触れもなく訪ねて来たことだ。 岡本は、私の書いた山の本を英訳してくれている人物で、たまに、そのことで協議することはあった。
角へ手がハンドルを切ってしまったのだ。 君のところで車を止めたあとも、しばらく迷ったのだが、来てしまったのだから入ることにした。
特別の用はないのだ」。 私は岡本を図書室に入れてしばらく雑談した。

仰天した岡本は、さっそく、ぬかずいて棺に手を合わせた。 岡本は名古屋在住のごく親しい高校時代からの友人だから、母とも親しかった。
私自身、霊魂が不滅だと確信しているわけではない。 ただ、一度だけ不思議なものをみたことがあり、いまだに気になっているので、そのことを書く。
話の発端は、二六年前の夏であった。 マカルー東南稜の登山から帰ったあとの出来事である。
ある日の夕方、関西からやってきた顔見知りの青年が電話してきた。 「いま名古屋に来ているので、一緒に夕食でもどうですか」という。
会ってみると女性が一人、一緒にいた。 青年は、「僕の許婚者です」と紹介した。
私の記憶では、その女性、K崎啓子(仮名)は、たえず笑みを浮かべていた。 私か、くだんの青年に会ったのは、その時が二度目で、確か、友人の弟の紹介で、三、四人のなかにいた一人だった。
その夜は、三人で夕食を食べたあと別れた。 K崎啓子二一歳、おかしいところはなかった。
それから1ヵ月たったある日、K崎啓子から、突然、電話があった。 その日は、両家族の間で結納の儀式が行われることになっていたという。
それに立ち会うのが恐くて逃げ出しだのだが、行くあてもなく、とりあえず名古屋の親友を訪ねて来たという。 結納の儀式には結婚する当事者二人が同席するしきたりだ。

かあるまい」 そこまでは、一応、あり得る話のように思えたが、その後に起こった一連の出来事を振り返ると、彼女には心の病があったとしかいいようがない。 くだんの青年からは、一度だけ電話があって、婚約は解消したと伝えてきた。
K崎啓子の本当の問題は、それから始まった。 彼女は、ときどき名古屋へ来て、私に会って話すこともあったが、ほかのときには、私の山の友人たちにも会っているようだった。
なかには、一緒に公園を散歩して長時間話し合ったという者もいた。 そのなかの、当時学生だった男が、ある日私を訪ねて来て、こういった。
き、実物をみせてくれました」記憶力ですね。 会ったこともない人たちのことを。
彼女は猫を飼っていて、名前はダダというのだそうです」 ブロバリン結晶の致死量は、調べてみると三グラムであった。 致死量三グラムの劇薬を二〇グラム持っていたということは、深刻な事態であった。
K崎啓子は頭のよいインテリで、おそらく薬科大学を卒業したのだと思う。 その頃私は、名古屋市内に一人用のアパートを借りていた。
海外の山へ行ったり、他の都市へ医学の修業に行ったりした間、名古屋に住む友人の二、三人にアパートの鍵を渡して、留守をみてもらうこともあった。 K崎啓子が名古屋までやって来て、私のアパートの扉をたたき、留守番の誰かに会ったこともあるらしい。
初めて会った日から数年たって、ついにその日が来た。 ある夜、私はコー時半に自分のアパートへ帰った。

ドアをたたく音がした。

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